戦艦ヴィットリオ・ヴェネト
Battleship Vittorio Veneto

1934年10月、トリエステジェノヴァの造船所で同時に起工した2隻の巨大戦艦は、まずヴィットリオ・ヴェネトが1940年4月に、 そしてリットリオが同年5月に就役しました。これらの戦艦は、直接にはフランスの ダンケルク級戦艦の建造に対抗したもので、1932年に設計が始まった時点ではダンケルク級と同じく 条約の制限内でまとめることをを目指していたようですが、途中で制限を大幅に超えざるを得ないことが 明らかとなりました。結果として、日米欧主要海軍が「条約明け」後の新しい戦艦のスタイルを模索する中イタリア海軍、技術陣の 「条約明け」という課題に対する一足早い解答となりました。イタリア海軍の大和、武蔵といえるでしょう。 そして3隻目が空母として完成した大和型と違い、ヴィットリオ・ヴェネト級では3隻目のローマも戦艦として完成しました。 要目や戦歴についてはこれらの解説があります。

Vittorio Veneto.ヴィットリオ・ヴェネト.近代世界艦船事典The Encyclopedia of World ,Modern Warships.

ウィキペディア(Wikipedia)「ヴィットリオ・ヴェネト級戦艦」

タラント空襲では難を逃れ、ドイツ空軍の 無線誘導爆弾の攻撃にさらされた時も僚艦ローマのような悲運にみまわれることもなく、 戦争を生き残ったので幸運な軍艦といえそうですが、1941年12月シチリア東方で英潜の雷撃を受けた時には多くの死傷者がでています。

終戦後のヴィットリオ・ヴェネトの運命については、「世界の艦船」増刊第41集「イタリア戦艦史」(解説:松村 道臣)で知ることができます。 ソ連は英米に対し執拗にヴィットリオ・ヴェネトと「イタリア」(リットリオはムッソリーニ失脚後「イタリア」と改名)の引渡しを要求し、これから逃れるため、2隻の戦艦はアレキサンドリア、さらに スエズ運河の大ビター湖に回航されたそうです。一方イタリア側は両戦艦がイタリア海軍のシンボルとして存続する可能性に期待をかけ、 1947年に2隻が帰国したあとも大事にしていたそうですが、ロシア、イタリア双方の綱引きもむなしく解体されてしまいました。 しかしこの時期には第二次大戦、特に太平洋での戦訓により航空機の攻撃の前には戦艦は脆弱であることははっきりしており、 巨大戦艦の維持費は割に合わないものであったはずです。両国の海軍が巨大戦艦にこだわったのは、まだこれをほんとうには理解していなかった ためではないかと思います。

この戦艦の語るべき特徴といえばプリエーゼ式水中防御 というあまり意味が無かったけれど斬新だった水中防御構造なのかもしれませんが、外観上最も目を引く特徴は円錐形の塔を基本構造とした艦橋でしょう。そこに円筒状の構造物を重ねて串刺しにしたような格好になっています。 この艦橋の構成は少し変わっていて上記「イタリア戦艦史」によるとこのようになっているそうです。

測距儀を収めた回転室が2段重ねになっており、そのうち下段は(艦隊)司令部専用の観測所で、艦橋も司令部専用のものが独立して設けられています。

実際にどの程度そのような使われ方をしたのか、またこのようなデザインにどの程度実用性、合理性があったのかは、私にはわかりませんが、 どこの国の軍艦でも司令部要員というのはいわば組織上の異物で、しっくりいかないことも多かったようで、もしかすると そういったことも関係しているのだろうか、などと想像してしまいます。 いずれにせよ模型マニア的視点から観るとこのスタイルには独特の魅力があります。円筒を基調とした造形にダズル・パターンの迷彩塗装をまとったその姿は 「くろがねの浮かべる城」ならぬ「アール・デコの浮かべる城」と呼びたくなります。 (私は第1次大戦頃流行し始めた軍艦の直線的な迷彩パターンは、照準を合わせづらくするには斜めの線が有効であるといった実用上の意味とは別に、キュビスムやその影響を受けた美術、デザインの流れの反映という面があったのではないか 、そして巨大戦艦をはじめとする各種兵器や迷彩塗装の鮮烈なイメージは、重工業設備のそれと同じように、逆に戦間期の美術、デザインに様々な影響を与えたのではないかと考えています。)

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