kappaa 雑記帳

オフォルクスワーゲン・カブト虫とポルシェ356のかたちについて

06/7/2

このポルシェ356は絵になるクルマで、とくに1980年代、西海岸の明るい風景のイラストの中にが描かれることが多かったように思います。 古さを感じさせないかたちですが、1950年代に作られたクルマなのでその頃すでに30年ほど経っていたことになり、その原型となった「ベルリン - ローマ型」が1930年代に作られたものであったことを考えると50年前に基礎を置くデザインだったことになります。私が Blender という道具を手にして最初に作ろうとした自動車はこれでしたが、Blender の使い方に慣れなていない状態で一気に作ってしまうほどなぜかこのかたちに惹かれていました。この固く中身が詰まったようなかたちはどこから来たのでしょうか。

このクルマの起源をさらに遡れば特殊な背景を持つ名車 フォルクスワーゲン・ビートル、カブト虫に行き着きます。長く生産され使われたので後の時代に他にない丸いスタイルが目立っていましたが、じつは「流線型」の丸いクルマが流行った1930年代から時間を超えて来たかたちだったので、少なくとも丸いという点では目立って当然でした。しかしただ丸いというだけでなく、このクルマもまたポルシェ356と同じように固くとてもかっちりした、インパクトのあるかたちをしています。これらのデザインが出現した背景を見ると、少なくともそのルーツの一部はオーストリア・ハンガリー帝国にあるのではないかという気がします。オーストリア・ハンガリー帝国はすでに第1次大戦後瓦解していましたが、帝国を支えた工業が消滅したわけではなく、チェコに本拠を置くタトラ、シュコダ、プラガや、オーストリアのシュタイアーなどの自動車メーカーは独自の発展を続けていました。ドイツ人が支配階級として君臨するという帝国の構造にもかかわらず、工業の中心はむしろもともとチェコにあったようです。とくにタトラ車は国境を越えて同時代の自動車技術に大きな影響を与えており、当時 kdf ワーゲンと呼ばれたビートルはハンス・レドヴィンカが設計したタトラT97の模倣という見方があるほどです。

模倣論争 - フォルクスワーゲン・タイプ1 - Wikipedia

そしてどういう巡り会わせか、1930年代のドイツで国民車構想を推し進めたヒトラーとフェルディナント・ポルシェはともにオーストリア出身で、これらのクルマのボディをデザインしたエルヴイン・コメンダもオーストリア出身でした。

「ポルシェ博士とヒトラー―ハプスブルク家の遺産」 (折口 透 著) グランプリ出版 より引用します。

中でもボヘミア地方の人々は、昔から芸術的才能に恵まれた民族として知られていたが、例えばそこに生まれた、作家のフランツ・カフカ、 作曲家のグスタフ・マーラーもその代表といってよい。ボヘミア出身者に限らずオーストリア・ハンガリー帝国内の野心のある者はすべて、 帝都ウィーンに集り、そこで自分の才能を開花させようとした。19世紀末のそうした無数の野心にあふれた若者たちの中に、この物語の主人公 となる二人の男がいる。フェルディナント・ポルシェと、アドルフ・ヒトラーである。

まだ帝国が瓦解する前、活躍の場を求めてウィーンに行った フェルディナント・ポルシェアドルフ・ヒトラーの運命は対照的なものでした。 水を得た魚のように才能を発揮し技術者として名声を得ていくポルシェと、画家になる夢破れ行き場を失うヒトラー。最近の研究ではこの時期のヒトラーの生活は経済的にさほど困窮していた わけではないとされているようですが、精神的には追い詰められていたのではないかと思います。

「写真集ヒトラー 第三帝国・興亡の記録」(小笠原久正/編著)に、「当時のおちぶれたヒトラーの状態を知る、きわめて数少ない 目撃者の一人」というラインホルト・ハニッシュの証言が紹介されています。その一部を引用するとこんな具合です。

彼はまた、黒い山高帽をかぶっていたが、いつもそればかりかぶっているので、ギラギラと脂光りがしていた。彼の前髪は、後年のそれと同じように、高くて広い額にぴったりとはりつき、うしろに長く伸びた髪は、首すじまでたれ下がっていた。ヒトラーは滅多に、散髪をしたりヒゲを剃ったりしなかったらしく、その落ちくぼんだ頬や痩せた顎には、いつも生えかけの黒い髭がおおっていた。

後にヒトラーが中欧に破滅的な事態をもたらした事にこのときの経験がどれだけ関係しているのかわかりませんが、なんらかの影を落としていた可能性は大きいのではないでしょうか。

ウィーンでそれぞれの若き時代を過ごした2人が後にドイツで出会い国民車構想を推し進めることになります。独裁者が国民に与えるためのアメ、という面もありますが、当時「労働者が自動車を買える」という状態を実現していたのは米国だけであり、それを見たヨーロッパの人々がなんとか自国でも実現しようと知恵を絞ったのは当然でしょう。 ドイツで真っ先にそれが実現すれば対外的にドイツの力を誇示できるということもあったでしょう。また小国となってしまったオーストリアと違って、当時のドイツ帝国は経済的にも展しつつあり、その力がありました。それだけに「国民車」( Volkswagen )を作るための人々の努力は徹底したものでした。

「マン・アンド・マシン」 ( 佐貫亦男著 )から引用します。

実用走行試験の総費用は3000万マルク以上、すなわち、価格950マルクのフォルクスワーゲン3万台分といわれる。自動車史上これほどテストに 費用をかけた前例はなく、今後もあり得ないであろう。普通はこの10分の1以下である。フォルクスワーゲンの欠点を除くための費用だけでも、 通常の新車開発費に相当したという。

水平対向四衝程四気筒エンジンに到達する前すでに、ポルシェは四衝程二気筒、二衝程二気筒、三気筒、複動ピストン、ディーゼルエンジン さえも試みている。エンジンのとりつけ位置決定のためだけでも500万マルク、すなわちフォルクスワーゲン5000台分の費用を使ったと称される。

その徹底振りは量産体制の構築にもおよんでおり、ポルシェ自身が渡米し、ヘンリー・フォードの協力を得ました。 ヘンリー・フォードはヒトラーから ドイツ大鷲十字章を贈られましたが、佐貫亦男氏は上記「マン・アンド・マシン」 でその本当の理由はこの協力にあったとしています。

こういった徹底した姿勢には、軍用車への転用が織り込まれていたという事情もあるでしょうが、国民は商品を選ぶ必要は無い、ほんとうにいいものを大量に生産できるのなら1種類でもかまわないという計画経済的発想が色濃く現れているように思います。

kdf ワーゲンの流線形の外観は、上述したように当時としては珍しいものではなく、タトラT97など1930年代中欧の小型車によくある形でした。 水平対向4気筒の空冷エンジンをリアに置いたバック・ボーンフレーム、全輪独立懸架という基本構造もタトラT97と同じでした。といっても必ずしも模倣というわけではなく、ポルシェはこれを設計する前にチュンダップとNSUで似たような車を設計しており、ポルシェとレトヴィンカが相互に影響しながら築き上げた、彼らにとって手馴れたスタイルだったのでしょう。しかし試作段階で十分すぎる手間と時間をかけるうちボディのフォルムも洗練を重ねていったようで、これがこのクルマの形が尋常でないインパクトを持つ理由のひとつでしょう。 戦後ビートルという通称が人々に違和感なく受け入れられたのはその造形の完成度が自然の造形による昆虫のそれに近い域に達していたからかもしれないと思うくらいです。

そのようにして作られた「国民車」は、国民が給料の中から一定額を積み立てて手に入れることになっていましたが、その前に 戦争が始まり、車は軍用車に転用されてしまい国民の手には渡らず、結局カブト虫が本当の意味で国民車になるのはドイツが破壊されつくした後、復興する西ドイツ においてでした。鍛えぬかれたデザインは戦後長い間古さを感じさせることなく通用し、外貨を稼ぐのにも役立ったのです。(一方東ドイツでは人々はナチ時代と似たような 積み立て制度でカブト虫より見劣りのする「トラバント」を買わなければなりませんでした。)

戦後まだ完全に再建されない工場でフォルクスワーゲンの生産が始まったとき、ポルシェはそれを見ることができませんでした。 上記「ポルシェ博士とヒトラー」の著者折口透氏の別の著書「夢をかたちに」(グランプリ出版)から引用します。 (ちなみにこの本には森優氏による美しいイラストが数多く入っていて、それを眺めるだけでも楽しいものです。)

ドイツ人を憎むことの甚だしかったフランス人は、ポルシェをはじめ、息子のフェリー、設計部長のカール・ラーベを、戦争犯罪人として フランスの刑務所に幽閉した。別に正規な裁判を行なったわけでもなく、むしろいやがらせに近いものだったが、フェリーとラーベはすぐ 釈放され、ポルシェ博士だけが獄につながれたのだった。余談だが、彼は、息子とラーベが、イタリアの チシタリアGPマシンの設計によって 得た金を差し出すことで、ようやく幽囚の身から救い出された。(47年8月まで)。

ポルシェ設計事務所は、大黒柱のフェルディナントを欠きながらも、なんとか生き延びていかなければならなかった。 大戦中の疎開先はオーストリアのケルンテンの小村グミュントである。そこで彼らは、キューベルワーゲンなどの修理をして 細々とその日暮らしの生活を送った。だが若いフェリーがそうした状態に満足できるはずもなかった。彼はラーベと協力して 一台のスポーツカーの設計を開始した。フランスからようやく戻ってきた父フェルディナントも貴重なアドバイスをしたことは もちろんである。

これがフォルクスワーゲンをもとにして設計されたポルシェ356のプロトタイプ1号車でした。1号車ではエンジンはミドシップに置かれていましたが、 次の2号車ではフォルクスワーゲンと同じくリアエンジンにもどされました。そして量産型とほとんど変わらないこの2号車のボディをデザインしたのが 「ベルリンー - ローマ型」フォルクスワーゲンのボディのデザイナー、エルヴィン・コメンダだったそうです。 このベルリン=ローマ型というのは、1939年に予定されていたベルリン−ローマの長距離レースに出るためにフォルクスワーゲンをもとに作られた もので、この時点ですでにポルシェ356の面影があります。

aki's STOCKTAKING : Erwin Komenda

kdf ワーゲンの形は、多民族からなるモザイク国家オーストリアハンガリー帝国の複雑で繊細な陰影の中にルーツがあると見ることができるように思います。それが全体主義国家の巨大プロジェクトと結びつくことでさらに洗練され、この特異な背景を持つクルマから戦後ポルシェ356が生まれ、それは現在のような高級ブランドとしてのポルシェが築かれる基礎となりました。どちらも長い時間をかけて鍛えられ、普遍性を獲得したかたちだと思います。そして356の多くが米国に輸出され西ドイツの復興を助けることになりました。そのためかアメリカの映画やTVドラマで「古い洒落たクルマ」としてその姿をよく見かけるように思います。 「48時間」( Another 48 Hrs. ) のエディー・マーフィー演じるお調子者や、 ビバリーヒルズ高校白書( Beverly Hills 90210 ) の「ディラン」が黒いポルシェ356に乗る姿は実に様になっていました。